■ 在るものは結構在る by T
2020-05-23


禺画像]
日頃、妻から「何が食べたい?」と尋ねられたら、僕は「在るものが食べたい」と言う。
すると妻は「無いものは食べられない」と言いながら、今在る食材で料理を作ってくれる。

それで良い。在るものは結構在るものだ。というか、在るものは結構在るものだということを再確認できるのだ。

一方、「在るものが食べたい」という注文はとても贅沢な注文である。何故なら、制約のある食材で作られた料理は、制約のない食材で作られた料理以上に頭を使っているからだ。モノに価値を付与するのはただ人間の労力だからである。

無いものは買いに行けば良いでしょ、という考え方もある。それを自由と認識する人もいる。しかし僕はそう認識しない。それは欲望に振り回される不自由な状態、欲望の奴隷と認識する。ひょっとしたら、これを食べたいといった欲望以上に、買い物する快感つまりお金さえ支払えば問題解決できるといった刹那的万能感の依存症の恐れもある。食べたいから買いに行くのではない。買い物したいから買いに行くのかも知れない。

真の自由とは、例えば「在るものを食べる」といったルールを一旦自らに定めたならば、如何なる時もそのルールに自ら自分を従わせることのできるコントロールの自由度だと考える。

とまあ、上記のような頑なな行動癖を誰かに述べると、大方は変な目で見られる。
しかし、先日ラジオを聴いていて嬉しくなった。それは今は亡き落語家の立川談志の話である。

立川談志のある弟子が生前の談志師匠のエピソードをラジオで語っていた。
「師匠は日頃、時計は時間が分かれば良い、車は走れば良いと口癖でした。そんな師匠が、ある食堂で食事をしました。店の主人は師匠に色紙のサインをお願いしました。談志師匠がその色紙に添えた言葉が傑作でした。何て書いたと思います?
『我慢して食え! 立川談志』
ってわけですよ。深い言葉です。戦中戦後の人生も笑いに織り込むのですから。」

自由とは抵抗感無く書き切れる能力である。制約無く、如何なる状況においても、己を首尾一貫させることのできる能力である。
そうなのである。つべこべ言わずに出されたものを食えば良いのである。
[by T]
[ソロー/Thoreau]

コメント(全0件)


記事を書く
powered by ASAHIネット