■ 市場(マーケット)に宝を貯えなさい。(その6:重荷を降ろして自由に)
2017-05-28


今は廃刊となっている『月刊ニューサイクリング』誌の2013年8月号に掲載された作品です。

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★重荷を降ろして自由に

禺画像]
[閑乗寺公園から春霞の散居村を望む]

そもそも、人間の正体がデータをダウンロードされた存在なのかもしれない。遺伝子情報をコピーされたモバイルな端末なのかもしれない。ひとつのフォルムとしての人間個体は有限である。だから子孫を残し、その核となる遺伝子は新たな固体に保存されることを望む。遺伝子情報自らが新たな固体を生ましめるモチベーションなのかもしれない。

哲学者サルトルは言った。人間の「実存は本質に先立つ」と。人間にはある特定の目的があってこの世に生まれたのではなく、存在すること自体のために生まれてきたのだというわけだ。これを実存というらしい。だから存在すること自体が価値あることなのだとサルトルは言った。

例えばここに自転車がある。自転車は移動するという目的を持って生まれた(生産された)道具である。この移動するという目的が道具としての自転車の本質である。その目的・本質がなければ自転車という道具は存在し得ない。だから自転車の本質は実存に先行している。時々、実存的愛情を我が自転車に感じる時もあるのだが。

・・・では人間の場合はどうか。人間は道具と違うというわけだ。むしろ反対で、人間の実存は本質に優先されるとサルトルは言っているのだ。しかし一方でサルトルはこうも言っている。これは同じフランス人思想家アルベール・カミュに対して言った言葉である。「君が君自身であるためには、君は変わらなければならない。」と。ひょっとしたらサルトル哲学も更新されねばならないのかもしれない。「伝達される遺伝子情報は、一人の実存的人間に先立つ。」と。そう考えると世界はハードボイルドだ。非情だ。でもこれが現実なのか。しかし、これはあくまでも僕個人の勝手な意見だ。だから無視していただいたほうが良いかもしれない。

とはいえ、仮にデータを保存・更新・継承していくことが、人間、生物、そして世界の成り立ちだと仮定するとしよう。それならば望むところだ。サイクリストとしての僕は、サイクリングで得られた情報・発見・記録・認識、思想等を、自分自身だけの記憶や個人的記録など自分の身辺にのみ保存しておくよりも、もっと安全・安心且つ恒久的な場所に保存することを考えた方が良いのではなかろうか。それは危機管理にもなるし、それ以上に自分自身が身軽になる。シンプルになる。自分は単なるモバイルな端末であるが、それが返って僕のフットワークを軽くしてくれる。決して世界はハードボイルドで非情なばかりではない。非情なのではなく、重荷を下ろし、しがらみを断ち切って、正に自由になることができる世界なのかもしれない。

「もし、明日、この世が終わりを告げるとしても、私は今日、林檎の木を植える。」
マルティン・ルター(ドイツのキリスト教宗教改革者)

「今日死んでもいいように生きなさい。そして同時に、千年生きるつもりで今日生きなさい。」              
マザー・アン・リー(キリスト教シェーカー教団開祖)


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